2017-11-23(Thu)

突破力&優秀なクローザーへの近道は新喜劇かもしれない?

今日は突破力について書きたいとおもいます。
こないだの経営研究集会ではなかなか面白い出会いがたくさんありました。
そこで、語れなかったけど、絶対大事だよ!
って話を補足したいとおもいます。
最近営業マンだった頃の話をする機会があったりして、改めて私が営業マンだった頃、私自身のいわゆる自己分析があまり出来てなかったような気がしているのです。
今でこそ思う。
みたいな感じなのですが、、、、
私の最大の強みは製造業界で若い女性の管理職クラスの営業マンが極端に少ないので目立つ。
みたいな所だと勘違いしていた節があります。
しかし、東北にきだすと、最近も言われたのですが
グイグイくるよね!
さすが大阪人!
みたいに言われたりする事がちょくちょくあるわけです。
そういえば、東京にでて初めてコンサルのお客さんになってくれたIさんから言われた言葉が蘇ってきました。
川端さんの凄いところは、嫌味なくするっとグイグイくる所だよね
冷静に振り返れば、この言葉はものすごく的を得た発言だった気がしてます。
よく言い換えれば、突破力。
悪く言えば、図々しい。(@_@)
グイグイ行くには実はタイミングが命だと私は思うんですよ。
①軽く押して反応見る
⬇︎
②ちょっと引く
⬇︎
③相手がアレ?って思う
⬇︎
④反り返った反動と共に少し強めにグイグイする
⬇︎
⑤突破!
みたいな。
さじ加減を間違うと嫌味な感じになるわけです。
この①~⑤をまるで風に揺れる柳の如くしなければなりません。
このゆるゆるとしたさじ加減いきなりは育ちません。
大阪人みたいに、幼き頃から培われた、ボケとツッコミ英才教育は偉大です。
ちゃんとボケて、定番のボケにはタイミングよくツッコミを入れるのが一つのコミュニケーションスキルであり、そこが下手だと関西では、所謂、『面白ない、しょうもないヤツ』になってしまい、ビジネスの世界においても相手にして貰えないこともざらにあります。
また、オチがない話をすると、怒られます。
オチがらない場合はせめて最後に
『オチは無いんやけどな』くらいは言わねばなりません。
ちなみにそれに対する返しは
『なんでやねん、オチないんかーいっ』ビシッ(右手でツッコミ)としなあきまへん。
そして、笑いが起きるのが美しい終わり方なのです。
関西人以外からみたら理解不能な文化です。
あなたが関西人では無い場合、笑いが取れないとなれば、せめて感動をさせる含蓄のある話をする必要があります。
所謂『ええ話やな~』(涙)ですね。
ただこれは尊敬されたり、一目おいては貰えますが笑いを取るより難しいよね!(@_@)って私はおもいます。
強者になると両方を混ぜ込んできます。
そんなスピーチスキルが私も欲しいw!
まあ、それは努力あるのみ、ではありますが、幼き頃から鍛えられた間合いを取るスキルは営業マンになると開花し、めちゃくちゃ有利なスキルになったのです。
私は大阪人ランクでいうと、笑いを取るスキルはあまり高く無いですが、間合いを詰めるのだけは実は得意なんですね。
いけると思ったらグイグイ行くにはタイミング(間合い)をはかる必要があります。
つまり駆け引き。
野球に置き換えるとクローザー的な仕事。
これは営業マンになくてはならないスキルです。
これが出来ないと最終的に仕事が取れません。
だらだらするのが嫌、ピシッと丸く収めたい。
多少の理不尽は割り切って考える事が出来る。
そういう人はクローザーに向いてます。
そして最近気がつきましたが
会議での話がやたら長い、オチがない。
割り切って考えるのがニガテ。
みたいな人はクローザーには向いていません。
私生活で言えば、やたら正義感が強く融通がきかない。責任をとりたがらない、優柔不断、みたいな人ですね。
あと、個人的にだらだら梯子酒や深酒するようなタイプの人も私はニガテです。
決まった時間にちゃんと終わらない宴会などに行くと心底辟易してしまいます。
そういう人がクローザーとして、クロージングしようとするとグタグタになったり、相手を不快にさせます。
しかし世の中にはこのタイミングが悪く、相手を不快にさせまくるという人がいます。
そういう人はKYとか、間が悪いヤツとか言われることになります。
何が言いたいのかと言えば、間が悪い人とはビジネスをすべきじゃないという事です。
間が悪いとは面白くない以上に、実はまずい事なんですよ。
逆に言えば、タイミングの良さはけっして偶然や、ラッキーハプニングではないですよ。
全部行動が引きよせた結果である。
と私はおもいます。
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2017-11-05(Sun)

魂ってどこにあるんだ

ネットをみていたら、非常に興味深い記事をみた。
AIに関する記事なんだけど、2045年くらいには人とAIが融合するのではないか?
それにより、我々の脳は劇的に賢くなるそうだ。
なんと10億倍。
なんだかもう書いていてもわけがわからない。
10億倍に頭が良くなるとか、想像したらなんだかもう気が狂いそう。
IQがどうこうの次元を超えてる。
それが標準化したら、いろんなものが、変わりすぎて馬鹿馬鹿しくなりそうで怖い。
多分、勉強の概念も変わるし、そもそもそうなったら多分戦争とか争いとかが無くなることを望むけれど、とにかく10億倍の思考に本体は耐えられるものなのだろうか?
行き着くところまで行った時、それはオリジナルの思考を残しているものなのかが気になる。
AIと融合し10億倍の知能を手に入れることは果たして人として幸せと言えるのか?
多少馬鹿な方が人生は幸せなんじゃないかと私は思うのだけど。
賢くなって何をするのか?
が問題であると思う。
まあ、私が生きているかはわからない。
と、言いたいところですが、さらに怖い記事を読んだ。
単細胞生物実験において、コールドスリープから目覚めたあと、記憶が破損されないことがわかったらしい。
現在世界でコールドスリープしている人が300人近くいるらしい。
コールドスリープを請け負う会社があり、価格は2500万。
いつか技術が進み、復活を夢見てコールドスリープしているわけだ。
コールドスリープから目覚めたら、記憶はそのままなのか?は疑問視されていたわけだが、ある意味その疑問に答えが出たという事になるらしい。
私が疑問に思うのが、じゃあ魂はどうなっているのか?というところだ。
最新の動向では脳を死後コールドスリープさせておいて、ロボットの体にAIに故人の脳をそのままダウンロードし、学習させるという技術開発が進められているらしい。
成功すれば、故人の記憶、趣味嗜好をそのままコピーしたアンドロイドが本当に生まれる。
それ自体は本物ではないにしても、AIは学習するので、思考も成長していくという事だから、そうなると仮に見た目が人間と変わらないアンドロイドであれば見分けはつかないし、年老いることが無い、まさに不老不死になると言える。
魂は生身の体にのみ宿るとすべきか、記憶に宿るものとすべきか?
そもそも、魂は存在するのだろうか?
いつか、生身の体に憧れるアンドロイドが本当生まれるのかもしれない。
普通の体をもつ人間が貴重になる世界が来るのだろうか?
死に急ぎたいわけではないけれど、終わりがない世の中は果たして幸せなのか私にはよくわからない。
2017-10-12(Thu)

助けて欲しいと言える事

最近、いろいろな所からの悩み相談が増えており、だんだん悩み相談室でも開業したほうが良いのではないだろうか?とか考えいる川端です。
家庭の悩み、会社での悩み、進路の悩み、転職に関する悩み、業務案件に対する悩みなど悩みの種類は様々ですが、なんやかんやで毎日メールなどが寄せられます。
中には電話や、直接お会いしてアドバイスする事もありますが、なんだかんだでビジネスに関してより、実はプライベートな悩み相談の方が多いのかもしれません。
一つずつ必ず回答はしていますが、片手間なのですぐに返事が出来ない場合もありますが、頑張って回答しています。
私は占い師ではありませんが、気分は銀座の母みたいな感じかもしれません(⌒-⌒; )
まあ、見た目はオカンやし。
悩みを聞いても、私が解決出来るわけではないので、アドバイスと言っても気休めなんですけども、それだけ悩みを抱えている人が世の中に沢山いるという事なんでしょうね。
出来るだけの事はしたいけれど、なかなか難しい事も多いですしね。
こないだ漫画『青の祓魔師』読んでたら、ライトニングのセリフで印象的なセリフがありました。
↓以下94話ネタバレ有りなので注意!


『助けて欲しいと思っている人間しか助けることは出来ない彼(雪男)は助けて欲しいと思ってない』
キーワードは『助けて欲しい』です。
鬱病になる人や、イジメで自殺してしまうタイプの人は、実はこの『助けて欲しい』を言い出せないタイプの人なんじゃないかと私は思います。
実際、この次の話で雪男は自殺します(未遂に終わりますが)
なんで其処まで思い詰めるくらいなら、誰かに相談したら良いのでは?と相談出来るタイプの人は思います。
しかし、この『相談』というのはある意味スキルであり、コミュニケーションの手段の一つとしてなかなかハードルが高い行為であると私は思いますし、何より、誰彼構わず相談出来るかと言えば出来ません。
少なくとも相手を信頼している必要があります。
相談して、助けてくれると思う人にしか相談しないものです。
だから、もし周りにいる人から真剣に相談に乗って欲しいと言われたら、それは勇気を出した結果であり、なおかつ信頼されているからこそですから、受ける側も真摯に答える必要があります。それがどんなに小さな悩みだとしても、真剣な気持ちには真剣に向き合わないといけないと思います。
さらに言えば感情的にならずにです。
これは本当に難しい事だと最近感じます。
普段からなるべく感情的にならないように努力していても、相手の感情が激しければついつい引きづられてしまいます。
ここは日々の鍛錬あるのみですね。
親しければ親しい程甘えが出で感情的になりがちですからね。
しかし、逆に悩みが深刻になればなるほど、親や親しすぎる人に相談出来ない場合も多いと思います。
赤の他人に話すほうがよっぽど気が楽な場合があります。
ネット掲示板、Yahoo!知恵袋とか2chなどにとんでもない馬鹿げた悩みから、作り話?(つり)と思うぐらい深刻な悩みが匿名で書き込まれているのが流行るのも頷ける話です。
みてると、信じられない常識外れな回答をしている人から、真剣に答えている人、批判している人など様々ですが、誰かにとにかく聞いて欲しい。という欲求が誰にでもあり、吐き出す事で気持ちが多少楽になるのは事実です。
しかし、的確なアドバイスが欲しいとなると、やはり信頼出来る専門家からアドバイスが欲しいと思うものです。
匿名はあくまでも匿名。
答える方も全体像が見えていませんし、なによりアドバイスも一般的なものになりがちです。
私が学校を卒業した当時、もちろんカウンセラーに憧れていましたが、当時就職先がありませんでしたし、日本国内において、カウンセラーに相談する事はかなりの精神疾患末期というイメージだったと思います。
今ほど気軽に専門医に行こうとは思えない状態でした。
今では、鬱病がある意味メジャーになり、メンタルヘルスが義務化されつつありますから、産業カウンセラーの方も周りに何人も知人もいますのである意味相談しやすくなっていますが、20年前では考えられない事です。
みなさんにお伝えしたいのは、一人で良いのでなんでも話せる人を持つことの重要性。
そして状況に応じて専門家のアドバイスを聞く事です。
昔に比べハードルがものすごく低くなっています。
一人で悩んでもロクな事になりません。
そんなワケで悩み相談自体は頑張って継続していきます。
2017-09-20(Wed)

拘りは善か悪か

今日は『拘り』について書いてみたい。
こだわり
って言葉、実は私は好きじゃない。
細部に拘る
拘りがある
みたいな言葉はなんとなく、一昔前のCM
『違いがわかる男』
みたいなイメージを持ちがちだけど、実際はマイナスな言葉だと思う。
事実、遡れば江戸時代、昭和中期くらいまで、
拘るという言葉は、過去のどうでもよい事に執着したり、固執したりとマイナスな意味で使われていたらしい。
なるほど、私がイメージしていた言葉の嫌な雰囲気は正にそれである。
1970年代くらいから、いつしかこの言葉が良いイメージに転じていったらしい。
そうなったキッカケなどはネットで詳しく書いておられる方もいらっしゃるので私は割愛するので、気になる方はググッていただきたい。
なにわともあれ、本来の言葉の意味を考えたとき、拘りなど捨ててしまえ!という事になる。
過去は過去でしかない。
執着して、気にしても反省材料にはなるものの、変える事は出来ない。
また、つまらない、些細な事を気にやむという意味で捕まえた時も同様で些細な事を気にしすぎては大局を見誤る。
拘りとはそういう言葉なのだと私は思う。
とくに、上に立つ人間の拘りというのは始末が悪い。
信念は持つべきだけど、拘りを持つべきではない。
もっと良い言葉は無いものか?
モヤモヤする。
私にとって、拘りという言葉はドロドロと怨念じみており本当に気持ち悪く感じてしまう言葉なのだ。
しかも、こだわりの反意語は
こだわりが無い
である。
それではなんとも味気ない。
まるでいい加減な人間のようにも聞こえてしまう。
同義語に、闊達である。
という表現があった。
まだこちらの方が幾分が印象が良く感じる。
ただし、小さな事は気にしない的な意味だから、印象と言葉の意味の違いは大変ユニークだと私は感じる。
そして、いくら私が気持ちが悪いと足掻いても言葉の意味は実際のところ時代と共に変化していくのが至極真っ当な事でもある。
そしてそれは以前感想を書いた小説『氷菓』の一文
『全ては主観性を失って、歴史的遠近法の彼方で古典になっていく。』
と大変近い感覚じゃないかとも思う。
古典は素晴らしい、しかしながら大事なのは、生きて変化し、蓄積され続けているリアルな生きた情報なのだ。  
だから、嫌だ、嫌だとは言うものの、認めざるを得ないのもまた事実なのだ。
なぜなら、其れこそ、過去にとらわれ拘っている事に他ならないからだ。
滑稽な話になってしまうではないか。
今日、先日取材を受けた雑誌のゲラが上がってきて、私はその中において
『知られていない=存在していない』と語っていた。
さらに
『情報が資産価値化してきた』
とも語っていた。
1時間の取材で使われる言葉はたかが知れていて、実際1/10も使用されないけれど、ライターさんがたくさんのキーワードの中から選び出したこれらの言葉は胸を打つものだったからこそ選び出されたキーワードなのだとも思う。
ブログを書きながら、心に波紋を投げ掛けられるような言葉を紡ぎ出し、情報を上書きできるような講師でありたいなと私は思うのであります。
2017-09-14(Thu)

私が考える『人生を豊かにする方法』

社員だった頃のことを今日は思い出して生きる意味について(深すぎ)書きたいと思います。
ちょうどその辺りを本に纏めているところでもあり、昔のことを懐かしく思い出して、書きながら泣いてしまう私です。
社長になりまもなく7年になり、今年は3つ目の会社の社長にもなりました。
しかしながら10年前、今のような状態を想像出来たかと言えば正直なとこ全く想像していませんでした。
35歳で社長になろうと漠然と考えてはいましたが、具体的にどうすれば良いのかよくわからなくて、日々の仕事に追われておりましたし、世界も狭くて、今思えばすごく小さな考えだったと思います。枠にとらわれて生きていたのです。
そんな私が、枠から抜け出して社長になれたきっかけはいろいろあれども、根底にはやはり3sがあります。
3sを通じていろんな出会いがあり、苦労もありましたが、私の生き方を語る上でなくてはならないツールになりました。
日々、より良い未来に向かって切磋琢磨し続ける事は苦しい事のほうが多いのが当たり前で、だけどある時、昔よりずっと楽に笑顔で生きている事に気がつきました。
小さな積み重ねが、つもり積もっていつしか大きな山ができました。
本当に世間で社長になる人と言うのは優れた人で頭も良くて、自分には足りないことが多すぎて、学びこそが自分を変えると気づいたのは21歳の頃ですが、当時の私は無知でした。
本当に。
今も講師をしていても、たくさんわからないことや苦手なことばかりです。
それは辛くもあり、楽しくもあり、まだまだ学び続けられる、成長出来ると思うと幸せな事だと私は感じます。
私の肩書きはコンサルタントとか講師とかだったりしますが、私は自分で自分がコンサルタントだとか講師だとは正直思えないと言うか、思いたくありません。
どちらかといえば、プロデューサーであり、アドバイザーでありたいです。
出来れば、ただの一人の人間であり、出会う人たちの良き友でありたいです。
何故なら人との関わりこそが大きな学びだからです。
私はキリスト教徒ではありませんが、隣人を愛せよという深い言葉に共感しますし、仏教でたとえるならば、坐辺師友の精神然りです。
そんな私ですから、社員じゃなくなった今でも気持ちは、いつも社員だった頃を忘れずにいたいと思っています。
だって経営者って、組織の中において、じつはかなり孤独で、さらに学びが社員だった頃以上に難しくなるからです。
そんなことは社員だった頃は考えも及ばないことでした。
ひたすら、社員だった15年は常に戦いであり、今の私を形作る原型ですはありますが、社員の枠以上の世界を知る由もなかったからです。
社長になった瞬間に、ああ自分は枠の外側に立っているのだな。と思いました。
そして、それはやはり社員だった頃にはわかりもしなかった世界でした。
私の目線は外側の目線へと変わりました。
そしてそれは寂しくもあり、違う戦いの始まりでもありました。
本来の私は(社員だった頃)面倒くさがりやで、適当で、出来れば争いは避けたいし、のんびりしていたいと思っていました。
はっきり言って記憶力は弱いし、その昔は人前で話すのも苦手でした。
少しずつ慣れていき、今では人前で話をするのが仕事になっているのが未だに不思議に感じるくらいです。
しかし、実際、のんびりも出来ませんでしたし、過労で倒れるほど働いていましたし、勉強は嫌いだけど必要に迫られて常に学ばなければいけませんでした。
しかも教えてくれる師もおらず、師に教えを請うためのお金すら工面が大変でした。
社長になった今、お金には多少の余裕が生まれました。
ただ、必要に迫られて学び続けていたことは会社という組織の中においての役割があって発生している事であり、社員の頃あんなに明確だった学びの内容が、社長になった途端に不鮮明になりました。
社長になるという事は結局のところ、自由だけど全てを自分で決めなければいけなくなるという事です。
それは、本来なまぐさな私が、今まで以上に自分を律しコントロールしなければいけないという事でありました。
そうして、全てをコントロールする事が如何に難しい事かをやればやるほど感じます。
私の内面にある、なまぐさな部分が好き勝手な事をしようとします。
しかし、それに打ち勝ち、前に進まなければいけません。
そうしてある時、私は私の内面の気持ちに打ち勝つのでは無く、うまく折り合いをつけながら進めなければ幸せになれないと気がつきます。
それをするためには自分と向き合うしかありません。
私は私が何を望んでいるのか、内なる声を聞かなければならないわけです。
それは組織における社長と社員の関係性と同じだと私は思います。
本当は社員の声=在りし日の自分なのです。
在りし日の自分を我々は本来誰よりも分かっているはずです。
だけど、立場が人を育てるというプラスの側面も持つ反面、立場は人をダメにもしがちです。
人は天爵により生かされ、生きていくべきで人爵に左右されるべきではありません。
私が好きな言葉に
非理法権天
と、いう儒教の言葉があります。
沖縄の特攻などの影響で曲解されがちかもしれませんが、私はそうは思いませんし天爵に通ずるものがあると思います。
何を為すべきか。
それは、人として天に恥ずべき行為ではないか?
生きる意味は人によって違いますから、どんな生き方にも、もちろん意味があります。
だから、とやかく言う必要はありませんし、自分が信じる道を見据えて歩けるならばそれで良しとすべきです。
多くの人がその道すら見つけられません
しかし、悲観する必要は無く、人は何歳になっても変わることが出来て成長する事が可能です。
その上本気になれば、何事からも学び続けることが出来ます。
しかも、自由にです。
不自由にしているのは思い込みで枠を決めている自分自身です。
かの万物の天才アインシュタインは、知識には限界があるが、創造(空想)には限界がないと言っています。だから創造する事は素晴らしいと。
世界は創造によって何処までも深く広くそれこそ宇宙よりも広大に拡がりをみせます。
私たちが宇宙の外側がどうなっているのか考える時、我々の心は宇宙の外側を見ているのです。
それは数値には換算する事すら出来ない、世界の果ての果ての話であり、とてつもなく自由な世界です。
そして大きな世界から自分というものを考えれば考えるほど、境界線とはいかに曖昧かと私は思います。
しかしながら、肉体には終わりがあり、肉体を持ち生きるという事はそれ自体が制約です。
宇宙の外側に肉体を持っていくことは出来ません。
だから生きるという事自体ある意味修行のような気がしています。
修行であるならば、日々辛いことが起こるのは当たり前なのかもしれませんし、逆に嬉しいことも生きて肉体があればこそ享受出来るのだとも感じます。
ぶっちゃけ、死んでしまったらおいしいものを食べる事すらできません。
だから、死ぬとは喜びも悲しみも何もない、感じることが出来ない状態なのではないか?とも思います。
なんていうか、大きな世界と混じり合った状態なのではないか?と考えています。
なんだか、話が壮大になりすぎましたね(笑)
この外と内の関係性を考えたいだけです。
先ほどは社長と社員に置き換えましたが、他にも親と子の関係性に置き換えても同じ事が言えると私は感じます。
何事にも外と内、もしくは表と裏が同時に存在しています。
生と死も然り。
全く相反する事象でありながら切り離して考える事は出来ないし、無理やり切り離してしまえば形は崩壊します。
全ては一つのものである。
それがわかれば人生はより豊かになります。
受け入れるとは本来そういう事なのだと思います。
そうして、人が人により磨かれるとは結局受け入れる事なのだと、そんな人間になりたいと私は思うのでした。
プロフィール

usaginomirai

Author:usaginomirai
(株)IMDワークス&MDファクトリーHS(株)代表取締役 の川端です。中小企業の未来をサポートする、ものづくりの地域を越えた顔の見える連携をテーマに連携事業、教育事業をベースに活動中。

ニックネームは、日本全国神出鬼没なことから、ものづくりのくノ一

MDファクトリーHS(株)
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