2016-09-01(Thu)

壮大すぎるテーマについて語る『シュレイティンガーの猫』

今日は哲学の部屋です

めちゃ長い上に、独自の理論展開をしていますから、暇な人は、エッセイばりに長い長文をお楽しみくださいw



『シュレイティンガーの猫』

という物理学の量子のもつれ、相反するつまりパラドックスの超有名な実験があります
以前にも書きましたが、

以下wiki

 オーストリアの物理学者のエルヴィン・シュレーディンガーが1935年に提唱した量子論に関する思考実験を意味する。まず、蓋のある箱を用意して、この中に猫を一匹入れる。箱の中には猫の他に、放射性物質のラジウムを一定量と、ガイガーカウンターを1台、青酸ガスの発生装置を1台入れておく。もし、箱の中にあるラジウムがアルファ粒子を出すと、これをガイガーカウンターが感知して、その先についた青酸ガスの発生装置が作動し、青酸ガスを吸った猫は死ぬ。しかし、ラジウムからアルファ粒子が出なければ、青酸ガスの発生装置は作動せず、猫は生き残る。一定時間経過後、果たして猫は生きているか死んでいるか。
 猫の生死はアルファ粒子が出たかどうかのみにより決定すると仮定する。そして、アルファ粒子は原子核のアルファ崩壊にともなって放出される。このとき、例えば箱に入れたラジウムが1時間以内にアルファ崩壊してアルファ粒子が放出される確率は50%だとする。この箱の蓋を閉めてから1時間後に蓋を開けて観測したとき、猫が生きている確率は50%、死んでいる確率も50%である。したがって、この猫は、生きている状態と死んでいる状態が1:1で重なりあっていると解釈しなければならない。



箱を開けるまでの状態がいわゆる
量子のもつれと言われるもので、二つの相反する事象が重なりあった状態が存在している
という実験です。

そして、箱を開けた瞬間に時間(世界)が分岐していく事になります。

物理学の話を考え出すと、えらい先生が考えても結論が出ていない話なので、私などが考えてもわけがわからない話です。
時々思い出し考えてみるのですが、ますます謎が深まるばかりですw


ただ個人的にこの、分岐する世界にはとても興味があります。

SFなんかでは、平行世界なんて言われたりしていますが、世界はこの分岐を無限に繰り返している事になります。

事実がAであったっしても、Bも確率としては存在する、つまりIFの世界。

タイムトラベルが本当に可能かわかりませんが(偉大なるアインシュタイン先生の相対性理論では可能らしいけど)タイムトラベルで過去を変えても、自分が元いた未来は変わらない。
って、ドラゴンボールでトランクスも言ってますね。(ドラゴンボール超、未来トランクス編凄い面白い)

つまり、難しい事は言い出すとキリがありませんけれど、多元宇宙理論を前提にした場合、無限に平行世界(パラレルワールド)分岐し生まれていくという説が面白くて好きです。

なお未来、現在、過去は多元宇宙理論的には、時間概念は基本なく全て同じように存在しているらしいのです。

いうならば、映画のフィルムを上映している段階において、今見ている場面以外にも、映画のフィルムは全ての場面が存在してるみたいなイメージとの事。

ちなみに個人的には、CADにおける、レイヤ階層みたいなもんだと思っています。

そもそも宇宙が神秘的すぎる

しかしながら、わかることがあるとすれば

考えている今この時、現在だけは多分存在しているって事実です。

世界の数だけ今が存在するとしても、自分を主軸に考えた場合の現在存在するという事実は基本揺るがない、、、。

今日はその前提を提示しておきながら、世界を揺るがすべく、
『川端政子は本当に生きて存在するのか?
そもそも生死とはどういうことか?』
という、壮大すぎるテーマについて考えてみます。

私は常日頃からこう考えています。

『もしかしたら、世界は何か別の生物(例えば神様のようなもの)がみている夢、つまり仮想現実かもしれない。』

リングの世界観です。

ポケモンGO拡張現実が世界的にヒットしており、さらに仮想現実について考えるようになりました。

ポケモンGOの世界において、リアルではポケモンは目に見えないのですが、確かにその場所に何かきっかけとなるプログラム、信号なりが存在しているから、アプリを通じて変換されスマートフォンというデバイスを介してポケモンの形をとるという事になりますよね?

また自分には見えないけれど、存在するというのは、なにもオカルトの話ではなく、空気だって私たちには見えません。
色、音、光、匂い、原子もろもろ、見えないが存在すると物理学上立証されているものはたくさんあり、例えば色などは、見える色と見えない色が実は存在しており非常に面白い。
通常の人間は3色型色覚と言われていますが、世の中には4色型色覚の目を持つ人もいます。
4色型色覚を持つ人がみている世界は普通よりももっと色鮮やか、なんと普通の100倍、
一億色存在しているそう。

なんとも羨ましい。

ちなみに、宇宙空間の最低でも25パーセントは暗黒物質というみえないどころか、何かもわからない未知の物質だそう。


宇宙に行かずとも、素粒子ですら、どこまで分けられるか、わかんない、時代とともに単位が極小傾向。
もちろん素粒子どころか、自分を構成する細胞一つも、裸眼ではみえないレベル。

世の中で私たちが実際目でみて認識してるのは世界の数パーセントくらいじゃないでしょうかね?

幽霊談議やUMAにしても、目にしたもの、科学で立証できる物しか信じないと言うのも良いのですが、世の中には科学で立証できていないもののほうが多いうえに、現代科学が正しいのかも立証できないわけです。

だから、時代とともに科学における認識も変化している中、我々は何を信じるべきなのかを誰かの判断に委ねすぎるのは非常に危険かつ、ナンセンスな問題であると思います。

稀代の大魔術師アレイスター・クロウリーが『法の書』にて述べているように「汝の意志することを行え、それが法の全てとなろう」※

みたいに、自分の意思をもって判断し作りあげてゆく方が何ぶんマシかもしれません。

※好き勝手してよいという意味ではありません。

あ、私はアレイスター・クロウリー自体の信奉者でもなんでもありませんので、召喚術などをして悪魔を召喚するような人はまっぴらですヨ。

(アニメや小説で完全なる悪役として描かれるアレイスター・クロウリーさん、マジでかなりヤバイ人だった実在の人物です。モデルになった有名どころは、『カードキャプターさくら』のクロウ・リードかな?)

さて、仮想現実かもしれない!と世界を疑う私はなにをもって私は生きて存在していると定義すべきか?

医療における物理的な視点で、生からの離脱、つまり死亡したと言う判定は日本においては医師により下され、

呼吸の停止
心拍の停止
瞳孔の散大

を基本にしています。

医師がいない場所で死んだら、医師が確認するまで法的には物理的に死んでいても生きてる扱いという、、


なお脳死による臓器移植問題はこの日本における物理的死亡判定を発端に争われています。

日本では、上記の3つに当てはめるならば、脳死は人工的にしろ、心拍が動いてる、というか動かされてるため死亡に当たらないという事になります。

なお植物人間と、脳死はまた別です。
植物人間状態は意識障害にあたりますから、実際何年もして突然意識を取り戻す人がいるわけです。

本来生きる死ぬの分岐点は何処にあるんでしょうか?

我々は何によって生きているのか、肉体が死ぬ瞬間何が起こるのか?
そもそも魂は存在するのか?

魂が存在するとしたら、魂が肉体を離脱した時点で死亡と呼ぶのか否か?

論争は尽きず、私の興味もつきません。

とある臨死体験者がいうには、生きることは肉体という鎧を魂に纏うような感覚で苦痛であるらしいですが、それが本当ならばベースは魂であり、魂自体は死なないって事になり、死の定義はあくまでも古くなったり破損した鎧を脱ぎ捨てるようなものなのかもしれませんね。

兎にも角にも、現代の科学で立証出来ないので何を本当とするのかは難しいと言わざるを得ないです。

ところでクロウリーの言う自分の欲するものが正義であり、真理であると考えるならば、人はみな本来善人である事が不可欠であってほしいですね。

性善説と性悪説ならば、私は断然、性善説をとります。


そして生まれ持つ能力の原石も磨き方で如何様にも変わると思いたい。
基本、環境や出来事、行動や、出会いにより人は磨かれてゆくと考えます、そのベースには基本、生まれながらにして人は善であって欲しいと私は願います。

シュレイティンガーの猫の話を考えるときに
私が思うのが、相反する生死という現象はあくまでも肉体的な実験ですが、肉体的生死以上に実は精神的生死なんです。

だって、生きる死ぬの話はこの世界が本当に存在するのか?を立証出来ないとすれば、物理的な肉体の生死以前に意思を持って考えている思考、つまり情報であり、生きて死ぬまでに蓄積したデータにこそ価値があると思うからなんです。

そのデータを誰が、なんのために欲しているのか?は何通りかの推察ができますが、正直よくわかりません。
世界を作った何かです。
神様的なものですね。

無神論者の皆さまもおられると思いますが、
宗教がなんであれ、実は関係なくて、
全ての事象には始まりと終わりが存在し、
いづれも外部的な意思が介入していないと説明がつかないからです。
生まれる事と死ぬことは、基本自分の意思で決められるのか?

死ぬことは自殺すれば決められるかもしれませんが、自殺という概念を外せば、自分がいつ死ぬかを自分で決められません。

そもそも、この世界が仮想かもと私が考えてしまうのは、宇宙の始まり(起点)は誰がどうやって始めたのか、宇宙が始まる前、というか、宇宙って今もどんどん広がっていってるらしいんですけど、じゃあ宇宙の外側ってどうなってんの?っていうか、宇宙って生き物なんじゃないの?

みたいなそもそも論があるからなんですね。

宇宙規模で考えてみたら私個人の存在なんかは微生物の大きさにも満たないものですし。

それなのに、私が宇宙について考えているって、不思議で仕方がない。

私の体の一細胞が意思をもち私の健康について思案してるようなイメージですよ?

なんか、こうDNAには生物が生まれてからの
データが蓄積されつづけているのに似てますよね?

だから宇宙って、なんか巨大な生き物(エネルギー生命体)といっていいんじゃないでしょうか。

宇宙の中の細胞の一つてなんかしっくりくる。

細胞の一つとして、何回も生まれ変わりながらデータを蓄積するイメージ。
そうなると魂は細胞の核にあたるのかもしれませんね。

なんか、クラゲぽい話。

生死の話で思い出しましたが、不老不死な生き物が存在しているらしいですよ。

一部のクラゲやヒドラとか(体長1センチほどの淡水産無脊椎動物)、ロブスターとかも不老で、外敵要因が無ければ不死らしいです。
生きるとか、死ぬとか考えているかは別にして、なんだ、コレおかしいよ?
しかし、ふと考えてみれば、彼らは脱皮したり分裂したりしていくらしいのね、
細胞を自分でリニューアルし続けるので、老化しないって、、、どうなってんだ。
(ー ー;)?って思ったけど、、、

あれ?魂が不死なら、外見がリニューアルし続けるのと、同じじゃね?

ある意味人間も魂が本当にあるなら、不死と言えるかもしれないよ。

なんだか、話が壮大になってしまいました、、、。

ここで、魂不死理論は置いといて、今存在する、川端政子としての生きてから死ぬまでのサイクルにおける事象のみを考えてみた時、

『生きる事は記憶の蓄積であり
死ぬ事で記憶の更新がされなくなった結果、
記憶は減り続け最終的に記録のみが残る』

という推論を立てます。

『シュレイティンガーの猫』
をイメージしながら話を進めます。

私にとって、たとえばしばらくあっていないけれど、辛い時は思い出すような大切な心の拠り所の親友がいたとします。

何年もあっていないし、連絡もとっていないため、実際会うまで、私の中には彼女は生きているという事実と死んでしまったかも知れない事実が重なりあって存在していると言えます。(量子のもつれ)

この時、精神性を重視し、記憶をベースに考えたなら本当に生きているか、死んでいるかは大差ない気がするのです。

どちらも想定の話、つまりどちらかは仮想現実みたいな話ですが、どちらであっても構わない。(ま、実際は構いますがね)

生きていても、死んでいても、彼女が存在した思い出、記憶が心の拠り所である以上、死んでいたとしてもどちらかはわからない場合、私に対する影響力は変わらない。

では、どちらかわかった場合はどうか?

ここで未来が分岐することにはなりますが

生きている場合のルートA
影響力は大して変わらないが、時間や機会の共有頻度が上がれば影響力が大きくなる可能性がある

死んでいる場合のルートB
死んでしまったとわかった瞬間的に影響力は大きくなる?しかし、時間の経過とともに共有記憶は更新されないため影響力は基本縮小する可能性が高い


ルートBにおいて基本縮小すると書いたのは
どんなに自分に大きな影響を及ぼす大切な人であったとしても、人は時間の経過とともに忘却するという事実は避けて通れないからです。

毎日会う人と、週一で会う人、月一、年一
共有する時間は影響力に比例せずにはいられないでしょう。

しかも忘却曲線によると、一定期間で繰り返せば、繰り返すほど人は忘れにくくなる。

どれだけ印象深く、大切な人がいたとしても、毎日一緒にいる人の影響力にはかなわないという理論が成り立ちますね。

環境が人を形成するので、良い人(成功者や高潔な人)と共にありなさいとは、こういうことなのかもしれません。

話を戻します。

死を認識し、瞬間的に大きくなった影響力は時間の経過ともに薄れ、記憶はいつしか存在自体が無くなる(影響力が限りなく0に近づく)
しかし生きている限りは接触の度に記憶は上書き更新される可能性がある

そして記憶を共有する人が0になれば、記憶は世界から消滅し、物理的記録としてのみ存在する。その時こそが本当の死と言って良いのでは無いか?

人は立派な墓を作る時(ピラミッドなどは良い例)
自分の存在していた証を残したい。
記録を残し、そして記憶に残りたい。
と思っているのでは無いでしょうか。
なお、ピラミッドを作ったエジプト人は死後の世界の家としてピラミッドを作りましたから、多少解釈は違いますが。

しかし証を媒体や形に残すことは可能ですが、そこにあった共有記憶はいつしか消えてゆくでしょう。

墓に入った個はいつしかなくなり、○○家の墓としての集合体になるわけです。

過去の偉大な人物にいくら影響を受けても、それは記録を紐解いているだけで、感じるものはあったとしても、生きている人と触れ合うことで生まれる記憶にはなりえません。

記憶には温度みたいなものがある様におもいませんか?

我々が記憶を表現する際に、懐かしい、温かい、寂しい、悲しい、辛いなど温度感がある様に感じます。

反して記録には事実が記されており、物語調になっていたとしても、共感はしても温度感は感じる事は難しいと思われます。

過去のどんな偉人の生き様よりも、生きて存在し、記憶を分かち合える人との関わりの方が影響力が物理的側面、精神的側面、両面から大きい事がわかります。

自分が生きて存在し、記憶を共有している事がいかに偉大な事かというか、ある意味奇跡的な確率!なのでは無いか。

そうして、墓が先祖の集合体になるように、昔の日本人だったり、人類そのものの、記録としてDNAに刻まれ子孫へと引き継がれていく、引き継いでいくための一過程として、バトンを繋ぐために、私たちは生きて死ぬと言えるのでは無いでしょうか。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

コメント

プロフィール

usaginomirai

Author:usaginomirai
(株)IMDワークス&MDファクトリーHS(株)代表取締役 の川端です。中小企業の未来をサポートする、ものづくりの地域を越えた顔の見える連携をテーマに連携事業、教育事業をベースに活動中。

ニックネームは、日本全国神出鬼没なことから、ものづくりのくノ一

MDファクトリーHS(株)
MDネットショップ
最新記事
カテゴリ
最新コメント
MMS(マイクロモノづくりストリーミング)
H24.6.1マイクロモノヅクリさんでの話しが配信中です。
FC2カウンター
FACE BOOK
monozukulinkTV
monozukulinkの情報発信TVスタート!
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

月別アーカイブ
リンク