2017-09-14(Thu)

私が考える『人生を豊かにする方法』

社員だった頃のことを今日は思い出して生きる意味について(深すぎ)書きたいと思います。
ちょうどその辺りを本に纏めているところでもあり、昔のことを懐かしく思い出して、書きながら泣いてしまう私です。
社長になりまもなく7年になり、今年は3つ目の会社の社長にもなりました。
しかしながら10年前、今のような状態を想像出来たかと言えば正直なとこ全く想像していませんでした。
35歳で社長になろうと漠然と考えてはいましたが、具体的にどうすれば良いのかよくわからなくて、日々の仕事に追われておりましたし、世界も狭くて、今思えばすごく小さな考えだったと思います。枠にとらわれて生きていたのです。
そんな私が、枠から抜け出して社長になれたきっかけはいろいろあれども、根底にはやはり3sがあります。
3sを通じていろんな出会いがあり、苦労もありましたが、私の生き方を語る上でなくてはならないツールになりました。
日々、より良い未来に向かって切磋琢磨し続ける事は苦しい事のほうが多いのが当たり前で、だけどある時、昔よりずっと楽に笑顔で生きている事に気がつきました。
小さな積み重ねが、つもり積もっていつしか大きな山ができました。
本当に世間で社長になる人と言うのは優れた人で頭も良くて、自分には足りないことが多すぎて、学びこそが自分を変えると気づいたのは21歳の頃ですが、当時の私は無知でした。
本当に。
今も講師をしていても、たくさんわからないことや苦手なことばかりです。
それは辛くもあり、楽しくもあり、まだまだ学び続けられる、成長出来ると思うと幸せな事だと私は感じます。
私の肩書きはコンサルタントとか講師とかだったりしますが、私は自分で自分がコンサルタントだとか講師だとは正直思えないと言うか、思いたくありません。
どちらかといえば、プロデューサーであり、アドバイザーでありたいです。
出来れば、ただの一人の人間であり、出会う人たちの良き友でありたいです。
何故なら人との関わりこそが大きな学びだからです。
私はキリスト教徒ではありませんが、隣人を愛せよという深い言葉に共感しますし、仏教でたとえるならば、坐辺師友の精神然りです。
そんな私ですから、社員じゃなくなった今でも気持ちは、いつも社員だった頃を忘れずにいたいと思っています。
だって経営者って、組織の中において、じつはかなり孤独で、さらに学びが社員だった頃以上に難しくなるからです。
そんなことは社員だった頃は考えも及ばないことでした。
ひたすら、社員だった15年は常に戦いであり、今の私を形作る原型ですはありますが、社員の枠以上の世界を知る由もなかったからです。
社長になった瞬間に、ああ自分は枠の外側に立っているのだな。と思いました。
そして、それはやはり社員だった頃にはわかりもしなかった世界でした。
私の目線は外側の目線へと変わりました。
そしてそれは寂しくもあり、違う戦いの始まりでもありました。
本来の私は(社員だった頃)面倒くさがりやで、適当で、出来れば争いは避けたいし、のんびりしていたいと思っていました。
はっきり言って記憶力は弱いし、その昔は人前で話すのも苦手でした。
少しずつ慣れていき、今では人前で話をするのが仕事になっているのが未だに不思議に感じるくらいです。
しかし、実際、のんびりも出来ませんでしたし、過労で倒れるほど働いていましたし、勉強は嫌いだけど必要に迫られて常に学ばなければいけませんでした。
しかも教えてくれる師もおらず、師に教えを請うためのお金すら工面が大変でした。
社長になった今、お金には多少の余裕が生まれました。
ただ、必要に迫られて学び続けていたことは会社という組織の中においての役割があって発生している事であり、社員の頃あんなに明確だった学びの内容が、社長になった途端に不鮮明になりました。
社長になるという事は結局のところ、自由だけど全てを自分で決めなければいけなくなるという事です。
それは、本来なまぐさな私が、今まで以上に自分を律しコントロールしなければいけないという事でありました。
そうして、全てをコントロールする事が如何に難しい事かをやればやるほど感じます。
私の内面にある、なまぐさな部分が好き勝手な事をしようとします。
しかし、それに打ち勝ち、前に進まなければいけません。
そうしてある時、私は私の内面の気持ちに打ち勝つのでは無く、うまく折り合いをつけながら進めなければ幸せになれないと気がつきます。
それをするためには自分と向き合うしかありません。
私は私が何を望んでいるのか、内なる声を聞かなければならないわけです。
それは組織における社長と社員の関係性と同じだと私は思います。
本当は社員の声=在りし日の自分なのです。
在りし日の自分を我々は本来誰よりも分かっているはずです。
だけど、立場が人を育てるというプラスの側面も持つ反面、立場は人をダメにもしがちです。
人は天爵により生かされ、生きていくべきで人爵に左右されるべきではありません。
私が好きな言葉に
非理法権天
と、いう儒教の言葉があります。
沖縄の特攻などの影響で曲解されがちかもしれませんが、私はそうは思いませんし天爵に通ずるものがあると思います。
何を為すべきか。
それは、人として天に恥ずべき行為ではないか?
生きる意味は人によって違いますから、どんな生き方にも、もちろん意味があります。
だから、とやかく言う必要はありませんし、自分が信じる道を見据えて歩けるならばそれで良しとすべきです。
多くの人がその道すら見つけられません
しかし、悲観する必要は無く、人は何歳になっても変わることが出来て成長する事が可能です。
その上本気になれば、何事からも学び続けることが出来ます。
しかも、自由にです。
不自由にしているのは思い込みで枠を決めている自分自身です。
かの万物の天才アインシュタインは、知識には限界があるが、創造(空想)には限界がないと言っています。だから創造する事は素晴らしいと。
世界は創造によって何処までも深く広くそれこそ宇宙よりも広大に拡がりをみせます。
私たちが宇宙の外側がどうなっているのか考える時、我々の心は宇宙の外側を見ているのです。
それは数値には換算する事すら出来ない、世界の果ての果ての話であり、とてつもなく自由な世界です。
そして大きな世界から自分というものを考えれば考えるほど、境界線とはいかに曖昧かと私は思います。
しかしながら、肉体には終わりがあり、肉体を持ち生きるという事はそれ自体が制約です。
宇宙の外側に肉体を持っていくことは出来ません。
だから生きるという事自体ある意味修行のような気がしています。
修行であるならば、日々辛いことが起こるのは当たり前なのかもしれませんし、逆に嬉しいことも生きて肉体があればこそ享受出来るのだとも感じます。
ぶっちゃけ、死んでしまったらおいしいものを食べる事すらできません。
だから、死ぬとは喜びも悲しみも何もない、感じることが出来ない状態なのではないか?とも思います。
なんていうか、大きな世界と混じり合った状態なのではないか?と考えています。
なんだか、話が壮大になりすぎましたね(笑)
この外と内の関係性を考えたいだけです。
先ほどは社長と社員に置き換えましたが、他にも親と子の関係性に置き換えても同じ事が言えると私は感じます。
何事にも外と内、もしくは表と裏が同時に存在しています。
生と死も然り。
全く相反する事象でありながら切り離して考える事は出来ないし、無理やり切り離してしまえば形は崩壊します。
全ては一つのものである。
それがわかれば人生はより豊かになります。
受け入れるとは本来そういう事なのだと思います。
そうして、人が人により磨かれるとは結局受け入れる事なのだと、そんな人間になりたいと私は思うのでした。
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usaginomirai

Author:usaginomirai
(株)IMDワークス&MDファクトリーHS(株)代表取締役 の川端です。中小企業の未来をサポートする、ものづくりの地域を越えた顔の見える連携をテーマに連携事業、教育事業をベースに活動中。

ニックネームは、日本全国神出鬼没なことから、ものづくりのくノ一

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